良い部屋 180823 [Tennex]
いとこと遊んだ。
いとこは今年中学一年生の活発な少女だ。
私は今年22なのでいとことは10近く違うことになる。
いとこは小学生の頃から水泳をしたりバスケットボールをしたりとよく体を動かしていて、中学では陸上部に入部したらしい。
自分はというと、大学までずっと文化系の部活に入りっぱなし。体育の時間は好きだったけれども活躍できることはなく、特定の競技に思い入れが発生することもなかった。
皆に当たり前のように好きなスポーツは?と問われても、中原中也に詰められる太宰よろしく「サ・ン・ポ……」と苦しく答えるだけだ。
以前会ったときより幾ばくか髪の伸びた彼女の部屋に通され、入り口の反対に置かれたタンスに目をやる。その上にいくつかのくたびれたぬいぐるみをみて、詳しくはないが、すみっこぐらしの緑色のやつが好きなのだな、等と考えた。
年相応に飾り気がなく、また、かわいらしい部屋だ。
学習机があり、ベッドがある。ベッドの上には褪せたぬいぐるみが並んでおり、柔らかくなった枕がおいてある。焦げ茶のプラスチック枠に填まった壁掛け時計があり、可愛い犬の写真がついたカレンダーがその下に掛かっている。
親が適当に購入してくる物品のこだわりのなさと、芽生えはじめた個性とがせめぎ合う空間。
実家暮らしの部屋というのはこういうものでなくてはな、とおもう。
私が実家にいた頃はあらゆることにやる気がなく、廊下に寝袋を引いて寝ていた。いろんな事情があったが、いちばんの理由は布団の上げ下ろしが面倒だったからだ。
一人暮らしのアパートではベッドを購入した。狭いアパートの一室で、さらに狭いそのスペースから特に出ることもなく休日を終えることもそう珍しくはない。
アパートには装飾品と呼べるものは特になく、キッチンからはみ出した電子レンジと炊飯器、それから本棚だけがある。(タンスが嫌いなので、服を入れるタンスはクローゼットに押し込まれている。収納スペースに収納用家具をしまうのはあまり賢いとは言い難い。)
実家暮らしのときは執拗に貼っていた壁のポスターも、引っ越してからはとくに取り出さず天袋に納まっている。カレンダーや時計も置いていない。
しかし入りきらない本や漫画がタンスの中や床にうず高く積まれ、空間を侵食している。お世辞にも片付いているとは言えない。部屋というよりは巣や倉庫、と称されるような有り様だ。ここには最低限の生活しかない。
テーブルはあるが椅子やクッションはないので客を呼んでも寛いでもらうスペースがない。この前は漫画喫茶と呼ばれた。実際その程度のスペースしかない。
食事はキッチンで作り、そのままキッチンで立って食べ、洗って戻すようにしている。(これに関しては我ながら良い思い付きだ。配膳の手間が省けるし、温かいまま食べれるという利点がある。)
一度来た父親からは、「なぜこんなに自由なスペースがあるのにダメな方向に自由にするのか」と言われた。
その通りだ。この場所には、無だけがたくさんある。
とはいえどうぶつの森にしろスカイリムにしろfalloutにしろ、「家」というものはリスポン地点で、消失の心配がない唯一の「持ちきれないものを置いておける」場所だ。
(Minecraftでも手荷物を持ったまま死ぬと持っていたものを失うから大切なものは箱にしまうだろう。)
私もその感覚で持ち運ぶには重いもの、多いもの、持ち歩く必要のないものを「家」に置いている。
そう、兎角オタクは物が多い。
オタクは関心物を収集する習性があるからだ。
自分の場合は本や漫画、CDなどで、かさばるし重い。
フィギュアやグッズをレイアウトする趣味はないが、実体のある本を集める限り、スペースは足りなくなる。
それらのコレクションを問題なく置いておけるのはやはり他人に侵されづらい「家」ならではだと思う。
ここまでの認識だと倉庫で十分とは思うが、保持すべきコレクションに肉体を加えると、途端にキッチンや風呂、トイレなどあらゆる機能がついていたり、気密性が高く空調が調整しやすい「家」である方が勝手が良くなる。
上記の理由から、私は倉庫ではなくアパートを借りて住んでいる。
肉体がある限り「家」は必要だが、コレクションを手放したとき空間を所有する必要もなくなる。どうせベッドの上にしか居ないのならば、すべて処分してホテル暮らしのほうが快適だな、と思う。私には空間へのこだわりがない。
とりあえず私は倉庫ではなく「家」で暮らしている、と反論できるが、「部屋」で暮らしているとは言い難い。
そう、「倉庫」「家」そして「部屋」この三つの概念が自分の中にはあり、呼び名はどれでもよいのだけれど、それぞれに明白な違いがある。
(辞書通りの言葉ではなく、自分の中のイメージであることを先に述べておく。)
これら三つに共通していることは、基本的に許可なく他人に侵されない空間であることである。
しかし倉庫と違って「家」には空間のほかに生命の維持、つまり「生活」ができることが求められる。主に安心して快適に眠れる等、盗難の心配なく物を置いておけるだけでなく肉体の健康を保つための行動がとれる場所であると考えている。
更に「部屋」となると、その空間に目的や性質が付与されていること、つまり住人がどういう人かがわかることが必要になると私は考える。
すなわち「部屋」に至るには前述した、「実家暮らしの部屋に芽生える個性」が、他人の干渉を離れ結晶化することを条件として考えているのだ。誰と暮らしていても当人のこだわりや好みが反映されて当人の一部となっていることが「良い部屋」ひいては「よい暮らし」なのだろうと思う。
いとこが一人暮らしを始めたらどんな部屋に住むのだろうか。
「部屋」として成立していることを祈るばかりである。